ADHDと診断されるまで(1)
自己紹介も兼ねて、まずは僕がADHDと診断されるまでの経緯を書きます。
幼少期から社会人になるまで
周囲との関係
どこに行っても変わり者だった
「LB君って変わってるよね」
初めて会う人は、僕の第一印象をだいたいそんな風に語ります。
決まって僕は
「良く言われます。でも、自分では普通だと思ってます」
と返します。
変わっていると言われる事に僕は、嬉しさも憤りも感じません。 今までたくさんの人に会い、常にそう言われました。 幼稚園から、小中高大と集団生活の規模が大きくなる度、僕を変わり者と呼ぶ人も多くなっていきました。
社会人になるとその傾向はますます強くなりました。 服装や言動、物の考え方、全てが周りの人たちと調和せず、 配属された部署の中で僕は注目の的でした。(もちろん悪い意味で) それと同時に、僕は会社で働いている人たちをとても不思議な存在だと感じていました。
僕は小さい頃から”大人”が苦手でした。 何故なら何を考えているか理解できなかったからです。だけど、大人が考えている事は正しい事だから、それに従わなくてはいけないんだと強く信じていました。
会社はそんな”大人”がたくさんいる場所でした。 ”大人”になったと思っていた僕は僕のままでした。
”嫌な奴”と”面白い奴”
会社に入って嫌なことばかりあったわけではありません。
むしろ良いことの方が多かったように今は思います。
一番心に残っているのは、僕のこと支えてくれる人にたくさん出会えた事です。
僕は会社にとって必要とされる人間ではありませんでした。 それでも僕は何かの役に立ちたいと歯を食いしばってもがいていました。
今にして思えばやらなくて良い無駄な努力を沢山したり、愚痴をこぼすことも多々ありました。 そんな僕を傍から見て、不憫に思ったのか自分の仕事を犠牲にしてまで僕の仕事を手伝ってくれた人、僕の悩みを真剣に聞いてくれた人、遊びに誘ってくれた人、たくさんの人たちが僕を支えてくれました。
”アイツは変わっているけど面白い”
そんな風に思って、親しくしてくれる人がたくさんいました。 僕は人に親切にされた経験があまり無かったので、辛かった時、助けてくれた人たちの事を思い出すと今でも切ない気持ちになります。
一方で僕を憎む人もたくさんいました。 僕は決められた価値観に縛られる事が大嫌いでした。 だけど、会社は決められた価値観で作り上げられた世界です。 集団で活動する以上、一定の価値観の基で行動することは必要不可欠です。 頭では理解していても、僕の心はいつもモヤモヤしていました。 そんな僕は”我が社の社員ならばかくあるべし”と、一定のスタイルを強制する人や、自分のやり方にこだわる人を好きになれませんでした。
自分の事をどう思っていたか
なぜみんなと同じにできないんだろう
そんな周囲の評価に対して僕が常に感じていたことは”なんでみんなと同じように考えたり、感じたりすることができないんだろう”と言う事でした。
今でも強く印象に残っているのは小学生の時、ホームルームでの出来事です。ホームルームでは担任の先生がジョークを言って生徒たちを笑わせるのが常でした。だけど僕はそれを一度も面白いと感じた事がありませんでした。 なぜこんな話でみんな笑えるのか、まったく理解できませんでした。
「LB君はいつも笑わないよね」と担任の先生に言われた事もありました。
僕は決して笑わない子供だったわけではありません。 むしろ、笑いは僕の生活にとって大切なものでした。 ダウンタウンやフォークダンスde成子坂は僕にとってアイドルでした。 彼らの作る笑いの世界に僕は魅了され、憧れていました。
そんな目眩く笑いの世界と現実の壁はあまりにも大きかったのです。 僕にとって先生の言うジョークは、あまりにも程度が低かったのです。僕はみんながやるような愛想笑いができませんでした。ホームルームの時間は疎外感に苛まれ、常に苦痛でした。
この経験が尾を引いているのか、僕は未だに愛想笑いが苦手です。
孤独でいることが好きだった
僕は手の焼ける厄介な子供ではありませんでした。
どちらかと言うと従順で、ぎこちないながらも周りとは仲良くやっていました。
だけど、本当は一人でいるのが好きでした。それは今も変わりません。
一人でいる時、僕は決して苦痛ではありません。 本を読めば頭の中で本の世界に旅立つ事ができるし、音楽を聞けば心が豊かな気持ちになります。 ペンと紙を取り出して、新しい何か生み出だそうと試行錯誤することもあります。
クラブやバーでアルコールを煽っても、誰かと遊んでいてもふとした瞬間に僕は孤独を感じます。 それは僕にとって心地よい孤独です。